yuyuの備忘録

読書記録、ときどき海外ドラマ。

「対談集 日本人の顔」司馬遼太郎

朝日文庫
1984

対談集というのは読んでいて面白いと思えるものは滅多にない。
対談者同士が旧知で深くわかり合っていて、読者は置いてけぼりというパターンがほとんど。
あとがきで自分が思っていたことがまさに述べられていた。

日本の対話は、ふつう相手との間に相似部分を見つけ、自他のその部分を重ねあわせることによって一場の雰囲気を楽しむもののようである。(あとがき)

対して、ノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈氏が本対談で言った言葉が印象に残る。

「日本ではダイアローグが乏しいですね。ダイアローグというより、けんかになってしまう。ダイアローグの中でテーゼとアンチテーゼがアウフヘーベンし、さらに創造性を必要とすると思うのですけれども。日本という社会にはそれがないから、論理も創造性もあまり生まれて来ないのでしょう。」(p16)

収められている対談が全てダイアローグであるとはいえないが、今までに読んだ対談よりは楽しんで読めた。
あまりにも時事問題を扱いすぎて、時間を経て読むには不向きなものもあったのが残念なところ。

印象に残ったものの感想を3つ。

まずは最初の江崎氏との対談。

"ダイアローグ"が乏しい日本。暗黙の了解があって、前提をいうのは野暮だという雰囲気。それが仮説を立てるのを恐れる風土に繋がっているのかもしれない。

加えて、江崎氏の戦争に関する分析も非常に興味深かったので挙げておく。

日本を一つの村だと仮定して、村には情報がいろいろ入ってくる。...情報っていうのは、常に希望的観測を逆なでするんだけれども、都合のいいように情報を一切コントロールしてしまうんですね。これは村落の秩序と平和のためにコントロールするわけです。気に入らない情報が入ってこないために、みんないい気分になって新しい現実に適応もできなくなる。(p31)

次に、山崎氏との対談。
山崎氏によれば、文化とは公と私の中間地帯に生まれるものだという。王様や貴族がオペラをボックスで見ているのをイメージすると分かりやすい。
この中間の世界、文化においては都市が必要になってくる。

「文化がある生命を保って動いていくためには、その中の少数部分が大事にされなくてはいけないのですね。...どちらにせよ、現在の多数意見でなく少数意見というものが生きていなくては、次代の多数意見は生まれて来ません。そこを切り落としてしまうと、文化は変化を停止して循環を始めるんですね。民謡、民話、盆踊り、これは百年たっても同じことです。これは常にその社会の絶対多数ですから、変わりようがないんですね。少数の部分が残っているから、次の新しい可能性の方に動いていく力が生まれるんです。」(p202)

多くの日本人が思い描く"文化"というのはここで言われる停止して循環しているものではないだろうか。
民謡や盆踊り、これらは文化でもなんでもないと司馬遼太郎は言い切る。なぜ民謡ばかり大事にして、他のもっと優れた声楽は大事にしないのかと。
そもそもの定義を考えることをあまりしない日本人だけれど、文化とは何か、定義とともに考える必要もあるのではないだろうか。
いまは何となく外国から称賛されているものを日本文化だと言って誇っているだけのように見える。本当にそれで良いのだろうか。

最後に、梅沢忠夫との対談はとてもリラックスした雰囲気が読み手にも伝わってきて楽しいものだった。司馬遼太郎が関西弁なのも良い。
幕末から明治の日本人の写真を見ながら話を進めてゆくのだが、どんどん語られる梅沢忠夫のアイデアの多さには驚かされる。まさに仮説を立てられる数少ない日本人だ。