yuyuの備忘録

読書記録、ときどき海外ドラマ。

「フルトヴェングラー」吉田秀和

河出文庫
2011

吉田秀和没後10年に出た新装版。

今や音楽評論家は皆無といっていい。クラシックコンサートの下調べで批評を探してみても、ほぼほぼ絶賛する記事。どんな一流でも出来の悪い回はあるはずなのに、ほとんど見当たらない。これで良いのかと思ってしまう。
聴くほうの好みの問題で決して片付けられない、知識と感性に溢れた評論。

フルトヴェングラーの演奏については読んで、実際に音源を聴くのが一番分かりやすい。
大きく変わるテンポがその特徴だということだけ書き留めておく。

"フルトヴェングラーのケース"では音楽的な面以外のところが考察されている。
そして最後の丸山眞男との対談でもそのあたりについてがテーマになっている。
フルトヴェングラーの一番の不幸は、トスカニーニが同時代にいたことだと思う。ナチの支配下の国で指揮棒をとるのは許せないというトスカニーニ。"地中海のルネサンスヒューマニズムの伝統をもったイタリアの音楽家トスカニーニ"(p156)にはフルトヴェングラーが理解不能だったろう。

ドイツ人にとっては、政治、つまり便益の世界では、何か自分たちの意にそわないことが起こっていても、それを見逃して暮らすことが可能なのだ。それが、精神・文化の世界を冒してきさえしなければ、政治は不可避の悪として、許容される。世界第一流の頭脳と教養の士のいたドイツで、ナチスが、比較的短時日に、それも何とも野蛮なものすごく低級な手段で、政権を奪取できたのも、このことと無関係ではありえまい。現に、フルトヴェングラーは、その典型的な例である。彼は、ナチが政権をにぎってもまだ、自分の身辺にどんな変化が起こるか、あまり、真剣に考えたことがなかった。(p156)

フルトヴェングラーは「いきなり、ナチがキノコのように大地から生えてきた」(p177)というほど政治には無知だったようだ。
ドイツの公衆という"故郷"を必要とし、彼らのためにこそドイツに留まり演奏を続けたと述べるフルトヴェングラー。その公衆がどんな状況に置かれているかという視点は抜け落ちている。内面の自由さえも冒される状況になっていることをどの程度意識していたのだろうか。
歴史として見た時に、トスカニーニの断固とした態度との差がどうしても際立ってしまう。

それでも、フルトヴェングラートスカニーニ、どちらも今でも聴かれる指揮者として名が残っていること。演奏を聞いてもやはりどちらが正しいかったかなどとは簡単に言えない。

個人的にはフルトヴェングラーの演奏の方が好みではある。

フルトヴェングラーナチスについては映像の世紀でも取り上げていて、そちらも興味深かった。

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