yuyuの備忘録

読書記録、ときどき海外ドラマ。

「ノートル=ダム・ド・パリ」ヴィクトル・ユゴー

大友徳明訳
角川文庫
2022

2022年に出た新訳。当時の挿絵が良い。
ユゴーがこの物語を記したのが1831年。物語の舞台は15世紀のパリ。
ノートルダムシテ島など、変わらぬ情景に導かれるように15世紀という昔に思いを馳せる。

物語自体は一言でいえば、恋で何もかも見えなくなってしまった人たちの物語。
ジプシーの絶世の美女エスメラルダにノートルダムの司教フロロ、そして鐘つきのカジモド。

一番の読みどころはエスメラルダを取り返そうとノートルダムに集まるクロパンらとそれに相対するカジモドのくだりだろう。
フロロの行動も狂気なのだけれど、フェビュスしか見えなくなってカジモドの親切や好意にも気が付かないエスメラルダも狂気だ。
登場人物そろいもそろって周りが見えなくなって思い詰めていく、それが理解できないといったらそれまでだけれど。

「ガリア戦記」ユリウス・カエサル

國原吉之助訳
講談社学術文庫
1994

カエサルが記したガリア戦記。紀元前58年~51年のガリア、ゲルマニアブリタニアへの遠征の記録で、ラテン語の名文とされている。
カエサルは名文家なのだと実感したのは最後の章。この8年目の戦争の章だけアウルス・ヒルティウスが著しているのだが、そこに入った途端に読み進まなくなった。

カエサルが記しているがこの本、全体を通して3人称で書かれている。そのため最初はちょっと戸惑う。
カエサルが来たと知って兵は皆奮起、とかカエサルの的確な指示によって~、カエサルの功績を称えてローマの街は~とか。清々しいほどに自分の正当性と成果を強調し都合の悪い部分はスルーしている。

そもそもが馴染みのない「ガリア」。現在のイタリア北部からフランスにかけて、ケルト人が住んでいた地域を指すそうだ。
そのケルト人(ガリア人)に加えてガリアに侵入してくるゲルマニア人、更にはブリタニア人が次々登場する。彼らは部族名で細かく記載されており、なかなか厄介だ。巻末の地図を見ながらでもついていけないところもある。読み進めるのには多少の根気が必要だ。

冒頭でまずカエサルケルト人(ガリア人)を3つに分け、それぞれの特徴を分析している。
驚くのはカエサルの分析力。ガリア人について基本的には野蛮な人々としながらも、彼らの分析は怠らない。どういう時に一致団結しローマに立ち向かってくるか。彼ら特有の心理傾向はどんなものか。指導的役割の人物は誰なのか。
優れた戦争指揮官としての面をうかがい知ることが出来る。カエサル自ら書いているため、読者が偉大なる指導者と感じるように執筆しているだけかもしれない。それも含めてすごいとしか言いようがない。

一括りに軍記物といっても、日本の軍記物とは全く違う。
例えば平家物語の、基本的には敗者の側を情感を誘うようなストーリーとは180度違う。そういう文化の違いも感じられて面白い一冊。

「日本人の質問」ドナルド・キーン

朝日文庫
2018

ドナルド・キーンの日本文化に関するエッセイを一冊の本にまとめたもの。
全てが面白かったとは言わないけれど、いくつかは面白く読んだ。

ひとつは、表題にもなっている「日本人の質問」というエッセイ。よく聞かれる質問に答える形で話が展開されるのだが、自分も外国から来た人に同じような質問をしているかもしれないとちょっと恥ずかしい気持ちにならずにいられない。
例えば、刺身は好きですか?が、俳句は外国人にも分かりますか?など。うんざりするほど聞かれたのだろう。
著者によると、質問に答えたときの反応からその多くはNoという答えを期待しているように思えるという。質問に期待通りのNoという返事を得て、日本人にしか分からない文化に密かに優越感を覚え、その独自性を再確認して満足したいという意識の現れだと。だがそもそも、と著者は言う。40年以上日本文学を研究してきて、そこら辺の小学生より俳句を理解していなければそっちのほうがおかしいではないかと。確かにそうだ。読んでいると恥ずかしくなってくる。日本人がする質問は時代が過ぎた今も変わっていないだろうことを思うと余計。

もうひとつ印象深かったのが「日本古典文学の特質」というエッセイ。
そこで挙げられていた日本文学の特質を以下簡単にまとめる。

  1. 散文と詩歌の区別
     韻を踏むかどうかで厳格に区別されるヨーロッパや中国に対し、日本では音節の数で区別する。そのため、内容が詩的でなければすぐ散文になってしまう。
     日本語では母音が5つしかなく韻を踏むのが簡単すぎること、また、アクセントや長音と短音の区別でのリズムも作るのが難しいことが理由として考えられる。
  2. 奇数を好み偶数を嫌うこと
     詩歌の5、7や、日本庭園の左右非対称など。
  3. 扱われるテーマの狭さ、少なさ
     先代と同じようなテーマやイメージを持って新しく作る「本歌取り」が例。
     花といえばみな桜であったり、皆同じところへ行きたがって誰も行ったことのないところには興味を持たないこと。西洋では誰も行ったことのないところを目指そうとすることと真逆。
  4. 余情
     恋でも、終わりと始まりが読まれ、真ん中に当たる経験を読んだものが少ない。桜でも満開ではなく散ったあとが描かれること。
  5. 叙情性
     人の心、恋愛以外を描写したものが少ない。中国においては友人や酒の席のこと、旅立ちなどがテーマになる。
  6. 西洋的な構造の不在
     複数が一つの作品を作る連歌では全体の構造が問題にならない、または弱い。その場を楽しみ即興で作っていくことに重きが置かれ、複数人で作ったという跡を隠そうとしない。
     有名な作品の作者を多くの人が知らないというのは西洋では珍しいこと。例えば忠臣蔵。合作だが、著者の名前を言える人は少ない。
     絵巻物でも、部分だけあって全体の構造というものがない。
  7. 散文における主観性
     日記から生まれた文学。
     それゆえに現代に通じるものも多い。
  8. 文語体での小説
  9. 文学論の発達
     源氏物語の中にも物語論があり、世阿弥など、評論自体が文学として評価されていること。

ここで挙げられている特質は加藤周一の日本文学史序説にも重なる。特に叙情性や全体的な構造の不在の指摘の部分。
2-4は加藤周一が取り上げていなかった部分でもあり興味深かった。
エッセイとしてではなく文学論としてまとめて欲しかった、と思ってしまうところ、まさに指摘されている日本人の文学論好きというところだろうか。

「パリは燃えているか?」ラリー・コリンズ、ドミニク・ラピエール

志摩隆訳
ハヤカワ文庫
2016

以前に映画版を観た「パリは燃えているか?」。
ジャン=ペール・ベルモンドにアラン・ドロンカーク・ダグラスと仏米のスターが勢ぞろいした映画だったということの他はあまり印象に残っていない。
ずっと古本屋にあって買おうか迷っていたが、とうとう購入。

なんといっても印象に残るのはパリ解放を熱狂的に迎えるパリ市民を描いた部分。初めて見る花の都パリで市民(特に若い女性)に熱狂的に迎えられた良い思い出として記憶している人が多かったのだろうことがうかがえる。
その一方、たった一本道が違うだけで戦闘は続いており、ほぼ解放という最中で命を落とした兵士や市民たちの存在も忘れられない。

加えてパリ解放のもうひとつの面、ド・ゴール共産主義者との政治権力争い。
いち早くパリを解放した将軍として凱旋することを目指すド・ゴール。どんなことがあっても共産主義者に出迎えられるなんてことがあってはならないというド・ゴールの強い決意。
パリでレジスタンスとして戦っていたロル将軍たちからすると、最後のところでド・ゴールにまんまとやられてしまったというところだろうか。

登場人物が多くて分かりにくいのは映画と同じ。登場人物の多さを考えると巻末に索引が必要だと思うレベル。
普通の人たちの様子からパリ解放の様子を描きかったその意図は理解できる。資料から調べがついた人物は全て記録して残したかったという思いも伝わる。
しかし、読み物としては分かりにくいと言わざるを得ない。重要なのが誰で、この先も登場するのは誰なのか分からない。

兵士や市民の様々な視点から描かれるぶんド・ゴールやコルティッツ、ノルドリンク、ルクレール、ロル大佐らの描写が少なく、物足りなさが残る。

一番印象に残った人物は、ドイツの情報機関アプヴェーアのボビー・ベンデル。素性が謎に包まれた彼は一流の情報をノルドリンクに届け、時にはカーチェイスまでする。そのインパクトは抜群だった。彼の本があるのならば読みたい。

海外ドラマ「ミステリー・イン・パラダイス」Season 5

キャスト クリス・マーシャル、ジョセフィン・ジュベール、ダニー・ジョン=ジュールス、トビー・バカレほか
製作年 2016

カリブ海にある架空の島、サン・マリー島を舞台にしたBBC制作のミステリー。
Season4でカミーユがいなくなってしまってから見るのをやめていたところから間を開けての鑑賞。

回を追うごとにドウェインが生き生きと愛らしいキャラクターになっている。
残念なのはフロランスのキャラクターが薄めところだろうか。

一話ごとのフォーマットがしっかりと出来上がっているこのドラマ。設定について批判もある。
サン・マリー島の警察は無能で、有能なイギリスから来た警部が事件解決というプロットに対する批判。また、キャラクターは入れ替わってもイギリス人だけ常夏のビーチでスーツだし、"Sir"と呼ばれていることへの違和感など。

それら確かに気になりはするけれど、話の構成がしっかりしていて安心して観られる貴重なドラマだと思う。
当たり前のことかもしれないが、Means(手段), Motive(動機), Opportunity(機械)がちゃんとある。劇中でも繰り返されるように、それに基づいて捜査が進んでゆく。
身内が絡んでたり、テロや組織の闇を入れ込んだりするばかりの日本の刑事ドラマも見習ってほしい...
外国からの観光客だったり、フランスとの外交関係だったり、スケールは大きいけれど案外あっさりしていて、バランスがとても良いと思う。

次のシーズンはハンフリーに恋人が出来てイギリスに戻る流れが当然予想される。
ベン・ミラー演じるリチャード・プールの時のようなひどい退場でなければそれだけで満足かも...

 

海外ドラマ「アストリッドとラファエル〜文書係の事件録〜」Season 2

フランスのミステリードラマのSeason2。NHKにて放送。

キャスト サラ・モーテンセン、ローラ・ドベールほか
製作年 2021

以前から日本人の経営するお店にアストリッドが買い物にいったりはあったけれど、全体的に更に日本という要素が強めのSeason2。
第二話など、まんま日本のヤクザの話。ヤクザの抗争がパリで、とはちょっと驚く。
イレズミの細かい話や指詰めなど、今の日本ではとてもこんな話作れないだろう。
このヤクザの事件から、新たに登場したのがテツオタナカ。Season1からアストリッドが買い物していたタナカ食料品店のタナカさんの甥っ子で数学を勉強する学生。この先のアストリッドとの関係が楽しみ。

更に、新たに検事のフォレストが登場。
このラファエルの元彼の登場もあって、ニコラのキャラがちょっと変わったような。これまではラファエルの相棒で、想いを伝えられないちょっと気の優しい男、という感じだったのだけれど、マティアスが登場して存在感が薄く。そして魔術から文学まで幅広く深い知識を持っている面が強調された。
フォレストの単独行動氏がちで権力欲の強い部分が見えてきた中で、今度こそニコラは動くだろうか。

最終話では気になっていたウィリアムとの出会いも描かれて、アストリッドの知り合いたちが協力していく姿もみれて満足。
こんなにフランス人って仲間とか団結とか好きなのだろうかとは思いつつ。

シリーズ通してラファエルの規則を無視した暴走がひどくなって、アストリッドが恋に友情にと成長しすぎているのが全体のバランス的に気になるところ。

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「花田清輝」(ちくま日本文学全集)

1993
筑摩書房

花田清輝を知ったのは、猪瀬直樹三島由紀夫伝だ。
そこで引用されている仮面についての考察が強く印象に残っている。三島や太宰が常に自分に向けて仮面をつけていたというような内容。

花田清輝の本はほとんどが絶版。
今までに読んだどの評論とも違う、不思議な感覚だった。文体か、それとも論旨の持ってゆき方か。

収められている評論はどれも冒頭、読者をかなり引き込む。
例えば、冒頭に収められている「女の論理-ダンテ」の書き出しはこうだ。

三十歳になるまで女のほんとうの顔を描き出すことはできない、といったのは、たしかバルザックであり、この言葉はしばしば人びとによって引用され、長い間、うごかしがたい事実を語っているように思われてきたのだが、はたしてこれは今後なお生きつづける値うちのある言葉であろうか。人間の半分以上をしめている女のほんとうの顔がかけないで、男のほんとうの顔がかけるはずはない。

これは面白いと思って読み進めると、だんだんと分からなくなっていき、最後はわからないまま終わってしまう。

仮面についての話があるのだが、戦中の記憶からか、能面への評価がすこぶる低い。ここまでこきおろしているのも珍しいのではないか。

扱うテーマもちょっと他とは違っている。
歴史小説のようなものが数編。戦国時代の宣教師たち、特にカルモナの話は面白かったし、奈良の南朝の話もわからないなりに面白かった。
更には浪曲についての考察も。これに関しては背景知識がほぼないのでさっぱりだった。

日本の多くの知識人はドイツやフランスなど、どこかにベースを置いている印象が強いが、それが感じられないのが花田清輝。強いて言えばイタリアなのだろうか。
とにかく読み慣れないと難解でしかないので、作品をもっと再版してほしい。