「日本人の質問」ドナルド・キーン
朝日文庫
2018
ドナルド・キーンの日本文化に関するエッセイを一冊の本にまとめたもの。
全てが面白かったとは言わないけれど、いくつかは面白く読んだ。
ひとつは、表題にもなっている「日本人の質問」というエッセイ。よく聞かれる質問に答える形で話が展開されるのだが、自分も外国から来た人に同じような質問をしているかもしれないとちょっと恥ずかしい気持ちにならずにいられない。
例えば、刺身は好きですか?が、俳句は外国人にも分かりますか?など。うんざりするほど聞かれたのだろう。
著者によると、質問に答えたときの反応からその多くはNoという答えを期待しているように思えるという。質問に期待通りのNoという返事を得て、日本人にしか分からない文化に密かに優越感を覚え、その独自性を再確認して満足したいという意識の現れだと。だがそもそも、と著者は言う。40年以上日本文学を研究してきて、そこら辺の小学生より俳句を理解していなければそっちのほうがおかしいではないかと。確かにそうだ。読んでいると恥ずかしくなってくる。日本人がする質問は時代が過ぎた今も変わっていないだろうことを思うと余計。
もうひとつ印象深かったのが「日本古典文学の特質」というエッセイ。
そこで挙げられていた日本文学の特質を以下簡単にまとめる。
- 散文と詩歌の区別
韻を踏むかどうかで厳格に区別されるヨーロッパや中国に対し、日本では音節の数で区別する。そのため、内容が詩的でなければすぐ散文になってしまう。
日本語では母音が5つしかなく韻を踏むのが簡単すぎること、また、アクセントや長音と短音の区別でのリズムも作るのが難しいことが理由として考えられる。 - 奇数を好み偶数を嫌うこと
詩歌の5、7や、日本庭園の左右非対称など。 - 扱われるテーマの狭さ、少なさ
先代と同じようなテーマやイメージを持って新しく作る「本歌取り」が例。
花といえばみな桜であったり、皆同じところへ行きたがって誰も行ったことのないところには興味を持たないこと。西洋では誰も行ったことのないところを目指そうとすることと真逆。 - 余情
恋でも、終わりと始まりが読まれ、真ん中に当たる経験を読んだものが少ない。桜でも満開ではなく散ったあとが描かれること。 - 叙情性
人の心、恋愛以外を描写したものが少ない。中国においては友人や酒の席のこと、旅立ちなどがテーマになる。 - 西洋的な構造の不在
複数が一つの作品を作る連歌では全体の構造が問題にならない、または弱い。その場を楽しみ即興で作っていくことに重きが置かれ、複数人で作ったという跡を隠そうとしない。
有名な作品の作者を多くの人が知らないというのは西洋では珍しいこと。例えば忠臣蔵。合作だが、著者の名前を言える人は少ない。
絵巻物でも、部分だけあって全体の構造というものがない。 - 散文における主観性
日記から生まれた文学。
それゆえに現代に通じるものも多い。 - 文語体での小説
- 文学論の発達
源氏物語の中にも物語論があり、世阿弥など、評論自体が文学として評価されていること。
ここで挙げられている特質は加藤周一の日本文学史序説にも重なる。特に叙情性や全体的な構造の不在の指摘の部分。
2-4は加藤周一が取り上げていなかった部分でもあり興味深かった。
エッセイとしてではなく文学論としてまとめて欲しかった、と思ってしまうところ、まさに指摘されている日本人の文学論好きというところだろうか。
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