yuyuの備忘録

読書記録、ときどき海外ドラマ。

「終戦日記一九四五」エーリッヒ・ケストナー

酒寄進一訳
岩波文庫
2023

手嶋龍一氏が読んだ本で挙げていて、読みたいと思っていたケストナー終戦日記。残念ながら絶版でどこかにないかと探していたら、新訳が出た。

克服されないままのあの過去は、日中でも、夢の中でも迷いでて徘徊する幽霊と同じだ。幽霊をめぐる古い言い伝えと同じで、幽霊はわたしたちが見つけ、話しかけ、耳を貸すのを待っている。死ぬほど驚いて、ナイトキャップで目と耳を隠しても、なんの役にも立たない。まちがった方法だ。幽霊にも、わたしたちにも効きはしない。幽霊を直視して、「語れ!」と言うしかない。過去に語らせなければならない。そしてわたしたちは聞かねばならない。そうしないうちは、わたしたちも過去も心安らかにはなれないだろう。(まえがき)

更に、過去はメデューサの顔だが、そこに化粧を施してどうなるのだ(p12)という。

日記は1945年2月7日、ベルリンから始まり、バイエルン、マイヤーホーフェン村、シュリアーゼ村へと場所を移しながら8月2日で終わる。
ケストナーは発禁処分を受けていて作家活動は出来ず、基本的には人に頼りながら何とか生活している状態。

児童文学作家という印象が強いケストナーだが、それは単なる一面にすぎないことがよく分かる。
最初のほうは皮肉っぽい口調で綴らていく。明らかに末期状態にも関わらず繰り返されるプロパガンダに対するプロパガンダへの強烈な皮肉。

中盤あたりから、少しずつ口調が変わってくる。
映画クルーの一員に紛れて何とかベルリンからは脱出できたものの、よそ者として厄介になる生活は楽ではない。
アメリカ軍がこのまま止まるのか、それともソ連軍の管理下に置かれてしまうのではないかという不安。

それでも、後半部分ではケネディとコンタクトをとったり、少しずつ創作に向かっている様子が伺える。
配給問題ばかりだったのに比べて、春の花の話題など、少し心を向ける気になっているようだ。

だが、ナチスプロパガンダには皮肉を綴っていたケストナーだが、抵抗しなかったドイツ人という批判には黙っていられない。
国際社会だってもっと早く手を打てたのではないかと投げかける。

日記の最後が強制収容所の記述で終わっているのが印象深い。
あまりの出来事に感想や日記という形式ではなく、聞いたことを羅列するという形がとられていて、それがまたここまでの日記と対照をなしている。

なぜケストナーは亡命という手段を取らずドイツに留まったのか。
アメリカ軍から機会がありつつ何故亡命せずドイツに戻ったのか聞かれたという記述もあるが、本人にとってはドイツに留まるのは当たり前のことで、尋問される意味も分からなかったようだ。
しばしば日記でも引用されるゲーテやシラーの国から離れることなど考えられなかったのだろうか。亡命という手段をとった作家との違いはどこにあるのだろう。